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 私は死んだ。なぜなら、先ほど自殺したからだ。でも、なぜだろうか。まだ私はほかの人に見え、いまだにあの人に会えていない。事の発端は家で持ち帰りの仕事をしていた時、あの人の言葉を思い出したことだった。
 
『悲しいときには笑って
絶望したときに夢を見て
泣きたいときに上を見て
そして本当にうれしい時に…』
 
 本当にうれしい時に…なんだっけ。なんだか大切な言葉だった気がする。だが私は今現状思い出せる糸口がない。理由は簡単だ。私にそれを言った人はもうこの世にはいないからだ。彼女の手を思い出す。どうもおぼろげで、そしてはかない。でも、あのぬくもりを、あの日与えてくれたあの優しさを私はきっと忘れることはできないのだろう。
 
―そう思っていたのに。
 
 あの人からもらった言葉も、あの人の声も、あの人の顔も、あの人のたたずまい、しぐささえ、日が経つにつれて忘れてしまいそうで、時折恐ろしくなる。もういやだ。そんなのはいやだ。あの人を、ぬくもりをくれた人を失うだなんて、その人の記憶をなくしてしまうだなんて、そんな恐ろしいことは嫌だ、そんなのは嫌だ!
 
 なんて心の中で考えても、あの人の顔は日に日に忘れそうで、こんな時一枚でもあの人の写真があればと何度願ったことか。あの人は本当に写真を撮られるのが嫌いで、どんな楽しい雰囲気であっても、写真を撮られそうになると、即座に機嫌が悪くなった。なんでそんなにも写真を嫌がるのか、前に聞いたことがある。
『そんな機械の中におさめられている私なんて、私であって私でないようなものだから嫌いなの。』
 それに、私、ちゃんとここにいるから、機械の中の私でない私を見られたら、ちょっと嫉妬しそうだしね。と柔らかく笑う彼女の口から、嫉妬という言葉が出た時にちょっとうれしく思ったのを思い出す。そんなことなんてあるんだ、こんなきれいな心の持ち主でも嫉妬なんていう感情を持っているんだ、と。そんなことをそのまま言ったら彼女は、私だって人間よ、私をなんだと思っているの。と困ったように笑われて、ちょっとまどったのを同時に思い出した。だって、私にとって彼女は天使のような、神のような、マリアのような存在であったためだ。それから私の様子を察したようで彼女は…。
 
―なんていったのだろうか
 
 ああ、またほら、彼女を忘れた形跡を見つけてしまう。彼女の言ってくれた言葉、送ってくれた言葉を、次々に忘れていく私のことを、彼女はきっと呆れてしまうだろう。これ以上、彼女を忘れないうちに、命を絶ったほうがいいのではないのか。
…それが、事の発端だった。

 思い立ったがすぐ行動。それが私のモットーであり、好い面でも悪い面である。そう、今回のような考えなしの行動だって、そういう私のモットーに基づいてである。
 友人にも言われたが、
「お前の底なしの行動力には本当に尊敬すると同時に、怖くなるよ。」
というのはそういう意味であろうと、いまさらながら思う。
 というのも、前文で思った通りに、私は実際死んだからだ。そこに、私の残骸がまだ残っている。一応首つり自殺をしたはずで、だから首をつっている私の死体というものが目に見えている。首つりというのは案外簡単に死ねるらしい。意識をなくすように死んだ覚えがある。まあ、その前に首が閉まったので苦しかったが。
死ぬ前にさんざん泣いたため、目は赤く充血しており、口は押える力を失ったためだらしなく舌を垂らしている。よだれも、垂れている。さらに、肛門の筋肉もなくなったため、屎尿が垂れ流しになっている、情けない姿の私が、今ここにいる私の目の前にいる。
でも、その死体はほかの人には見えず、私にしか見えていないらしい。そして、どうも死体という名の私の実在する身体よりも、精神状態の私のほうがみんなに見えているらしい。ちょっと出歩いたら、大家さんが、
「あら、大柴さんじゃないですか、昨日は息子の勉強を見てくださってありがとうございました。今度何かお礼を…」
 と言って近づいてきたし、帰ってくる時に隣の武田さんが
「あ、大柴さん、先週借りていた本をお返しに行こうと思っていたんですけど、ちょうどよかったはいこれ。犯人の猟奇的な創造というか考えというかがすごく面白かったです。特に、部屋中血まみれ臓器まき散らしのシーン!あそこはほんと見ていてドキドキしました!いやあ、あの人の作品はとてもわくわくするものが―」
 と話しかけてきた。私は死んでいるのだと、この調子で語りかけたら絶対に信用してもらえないだろうと思ってしまったので、一応次の本を貸すついでに家に引き入れ、死体を見てもらおうとしたのだが、どうやら彼はその死体が見えていないようで、ちょうど死体の下―つまり屎尿とかがたまっている床である―に何の躊躇もなく座った。…その時私はついあっ、と声を上げて顔をしかめそうになってしまった。さらに、その上に私の借りた本を置きそうになって、その時とっさにああ、すぐに本棚にしまうからそこにおかないで私に渡してくれといった。必死だった…。
 
 そして、武田さんが帰った後、これは私の妄想ではないのか、きっと妄想の産物だ、触ったら消え失せるような、そんなはかないものなのだ、と言い聞かせて、死体に触ったら、生きていないようなぞっとする冷たさを感じ、私はやっぱりこれが死体であるということを再確認して、今に至る。
 
 
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