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wolf

「エメリア」
 
 …名前を、僕の名前を呼んでいる。エメリアは、浮上し始めた意識の中、そう思った。
 
「エメリア!」
 
「…お母さん…?」
 
 目を開けた先にいたのは、午前中はバザー祭りに一人で行くといってすねつつも喜びに満ち溢れていた顔と変わって、今にも泣きだしそうな顔だった。
 
 それにしても、なぜ、母は泣きそうなのだろうか。なにか、あったのだろうか。
 
 それに、私はいつの間に”悪魔の森”から抜け出せていたのだろうか。
 
 さらに言うならば、”赤ずきん”は?
 
 そんなことを、母に矢継ぎ早に聞こうとして、しかし、母の明らかな異常に、口が正常に回らなくなってしまったエメリアは、
 
「えっと、僕…」
 
 としか言葉を発することができなくなってしまった。しかし、母は何があったか察したようで
 
「あの“悪魔の森”の近くで倒れてたそうよ…!大事がなくてよかった…!」
 
 と言葉を紡いだ。
 
「ご、ごめんなさい、僕…」
 
 いつも明るくて陽気な母がこんな泣き出しそうになる顔は初めて見て、慌てて起き上がって、…しかしなんと声をかければいいのかわからず、とりあえず謝罪をとてもばつの悪そうにエメリアは言った。
 
 実際、ばつが悪かったのだ。あんなに楽しみにしてたバザー祭りの後に、後味の悪い思いをさせてしまったのだから。
 
「謝らなくていいわ。とりあえず、あなたが無事でよかった…。私、私が一人であなたを置いて、バザー祭りに行ったのが悪いのだから。」
 
「え、そんなこと」
 
「“悪魔の森”の恐ろしさを、なめてたんだわ私。別に、“悪魔の森”の近くに行くってだけで今まで被害に逢ったことがなかったから。ごめんなさい、エメリア…!」
 
 ついに耐えきれなくなったのか一粒の雫が母の頬を伝った。母はエメリアをぐっと抱き寄せた。
 
「本当に良かった…。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「エメリア。とりあえず、お母さんね、町の呪術師の人のところに行って、何かかけられていないかを調べてもらうために、ちょっと呼んでくるわね。だから、おとなしくここで待ってて頂戴。」
 
「う、うん」
 
「じゃあ、行ってきます」
 
「行ってらっしゃい」
 
 エメリアのお母さんは呪術師の人にお代としてこの前焼いたパンを籠の中に入れて持っていった。エメリアは、自分にかかっている毛布をぎゅっと握りしめた。
 
 お母さんがいつの間にか服を着替えさせてくれていたんだ、と、毛布を握りしめた時に気づき、さらに遣る瀬無くなってしまった。
 
 なんだか、体が鉛のように重い。
 
―それにしても、母は”赤ずきん”のことを一言も触れなかったのだが、彼女は、無事だろうか。それとも、あれすべて、夢だったのだろうか。
 
 思考の海へと漕ぎ出した彼女は、しかし、その思考を中断せざるを得ない状況に陥ることになる。
 
 
 
 
 
 
 
 
「で、アリス。一旦逃げられたけれど、早くしないと“あれ”に気づかれるよ」
 
「え?」
 
 
 
 
 
 
 
 母が行って約10分ぐらい経った時の事だった。自分しかいないはずの部屋のどこからか、声が聞こえるという現状にエメリアはただ純粋に驚き、あたりを見回してみる。
 
 しかし、何も見えない。
 
 何もいない。
 
 影すらない。
 
 エメリアは、さすがに鳥肌が立った。
 
 え、え、僕の幻聴…?といった風に。
 
 とりあえず、エメリアは、先ほどの声は幻聴ということで処理をして、だるい体をまた横たえようとした。
 
 
 
「だからアリス。早く、ここから出ないと。“あれ”に見つかってしまうって。」
 
 
 
「!?」
 
 エメリアは、今度こそ幻聴でないということを確信して、身を固まらせてしまった。
 
 だって、姿も形も見えないのに、声がするなんてそんなこと、幽霊しか…
 
「ああ、そっか、アリスには今私の姿は見えてないのか。ごめんごめん。」
 
「ひっ!」
 
 自分の顔の前に、無表情の、濡羽色の髪を持つ、紅の瞳の少女がいきなりあらわれて―つまりは、“赤ずきん”だ―アリスは思わず、短い悲鳴を上げた。
 
 誰だってそうだろう、悲鳴はあげずとも、いきなり何かが目の前に現れたら、驚くだろう。
 
 それが、人であれ、虫であれ、動物であれ、この世ならざらぬものであれ。
 
「ああ、驚かせちゃった?でも、急がないとだめだからね、アリス。強硬手段をとらせていただいたよ。」
 
「驚いたにきまってるでしょ!…あっ」
 
 勢いに任せて、母親や親しい友人などに対しての口調で“赤ずきん”に向かって言ってしまったエメリアは、ものすごく居心地が悪くなった。
 
「はは、大丈夫だよアリス、私に気を遣わなくて。むしろ、そのほうが親しい感じがして私は嬉しいかな、と思うよアリス。」
 
 本当にうれしいのかどうなのかわからないような、いまだ無表情の彼女を、エメリアは、ちょっと不気味に感じながら眺めた。
 
 だって、さっきから思っていたけれども、この“赤ずきん”、今までずっと、無表情なのだ。
 
 それでこそ、さっきの『囲まれてる』だったりも、もう少し焦ってもいいと思うのに無表情だし…感情があるのだろうか、と疑ってしまうのも仕方がないだろう。
 
「さてさてアリス。私は、アリスと長話をしていたいし、できれば一生一緒にいたいのだけれども、そうは問屋が卸さないような事態ばっか起こっていてね。だから、早くここから出なければいけないんだよ」
 
「でも、その、えっと」
 
 母さんのこと、待ってなくちゃいけないし、心配もするだろうし、と言おうとしたところで、”赤ずきん”に先の言葉を遮られた。
 
「アリス、いつもと同じように話しかけてよ。友達とか、家族とかと同じように」
 
 そんなことを言われても、さっきまで赤の他人だった人にいきなりフレンドリーになれるかというと、それは無理だ。
 
 さらに、ずっと無表情の人に、親しげに話せるかというと無理な気がするが、助けてくれた恩もあるので、エメリアは努めて親しげにしようとした。
 
「ねえ、“赤ずきん”」
 
「なんか“赤ずきん”というのも味気ないから、そうだね、ダイナとでも呼んでおくれよアリス」
 
 …努めて親しげにしようとした矢先、横槍を入れられてしまった形になってしまったエメリアは、でも、笑顔を崩さずに言葉をつづけた。
 
「…ダイナ。ここから出てしまうと、お母さんが心配してしまうのだけれども。それに、お母さんが返ってくるのを待ってなくちゃ―」
 
「何を言っているんだいアリス。アリス、この部屋の外には出ることはかなわないよ」
 
「は?」
 
「だから、この部屋の外に出ることができないんだ、アリス。」
 
「いや、だから、その意味が分からないっていってるじゃない…」
 
 何を言っているのか、言っている意味を図りかねているところに、ダイナは言った。
 
「つまりはね。この部屋の外に出るとね、簡単に言うと、一瞬で殺されるってことだよ。」
 
「…は…?」
 
 -変わらず、無表情で。何の表情もなしに。
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